トップページ
商工会とは
入会するには
水巻町商工会紹介
経営支援
金融支援
税務支援
労務支援
共済制度
 
電子電話帳
商工会ニュース
町の風景・町の行事
農産物直売センター
チャレンジショップ
夢工房
掲示板(伝言版)
 
お問合せ
 
水巻町の史跡・名所を訪ねて
  (チャレンジ水巻 連載企画)

2008.8 立屋敷遺跡
2008.6 吉田工業団地
2008.4 十三塚
2008.2 住宅団地
2007.12 報恩寺
2007.11 頃末
2007.10 八剱神社
2007.9 河守神社
2007.8 羅漢地蔵
2007.7 吉田片山
2007.6 猪熊工業団地
2007.5 曲川
2007.3 十字架の塔
2007.2 炭坑就労者の像
2007.1 水巻村誕生
2006.12 真宗妙楽寺
2006.11 内往還道跡
2006.10 吉田改良住宅
2006.9 古賀不動明王
2006.8 久我神社           
2006.7 伊豆神社            
2006.6 謡曲 「砧」           
2006.5 炭坑坑口跡          
2006.3 貴舩神社            
2006.2 吉田ぼた山          
2006.1 道元禅師と芭蕉塚      
2005.12 喚山(おらびやま)ものがたり
2005.11 古賀城址           
2005.10 与四郎の伝説        
2005.9 蔵冨吉右衛門ものがたり 
2005.7 吉田切抜(きりぬき)    
2005.6 吉田伏越(ふせこし)    
2005.5 JR東水巻駅         

立屋敷遺



遠賀川の本流が遠賀村西川を流れていた頃、水巻の湿地帯は地味豊かな低湿地で、立屋敷遺跡では水田農耕技術を持つ民族が集落を営むようになり、弥生式文化が芽生えた。
今まで丘陵地に住んで、狩猟、漁猟を主としていた人たちは、低湿地に進出して大陸の文化の伝達者から、稲の栽培方法を教わり、農耕を主とした新しい生活に入った。
立屋敷遺跡から発見される、弥生式前期時代の土器と共に発見される縄文時代後期の夜臼式土器は、縄文人の推移を物語るといわれ、大陸から移動した民族ではないことを立証しており、この地方の農耕文化の起源が博多平野と共に日本でも最も古いとされている。
現在でも同遺跡には無数の土器が砂中にあるいは、川底に散乱しているが、当時としては他に類をみないほどの大集落であったことを物語っている。(水巻町誌より)


吉田工業団地

元日炭労務課長の西尾司町長は41年「快適で住みよい町づくり」を目指しマスタープランを策定し、北九州工業地帯に働く人々のための住宅都市の建設を行うこととしました。生活基盤の整備を行うこと、幹線道路の整備、公営住宅建設、工業団地を造成し企業誘致を図ることを重点課題とした41年高尾団地の造成、42年みずほ団地造成、42年吉田工業団地の造成がおこなわれました。
かって花形産業であった石炭鉱業は合理化に追い込まれ、閉山、離職者、生活保護と日本経済の暗部に転換しました。そこで生じる社会的、地域的摩擦を軽減するために、石炭六法が実施されました。産炭地域振興公団は、第一礦閉山とともに片山、常盤、第一礦社員住宅の三隣接地域に吉田工業団地を造成しました。この工業団地に企業が進出することとなり長谷川仏壇店が吉田に進出しました。平成17年現在和洋食品協業組合など9社があります。長谷川仏壇は現在ありません。(増補水巻町誌


十三塚



平家の落武者がおらび山(現在のおかの団地)を降りて、十三塚(猪熊)で自害をした悲しい運命を弔って、13本の巨木が植えられてありましたが、大正9年に松は猪熊の財産として刈られてしまいました。その松を刈ったためにその翌年に村の主だった人々13人が亡くなったことは不思議とされています。この付近には山伏塚、山伏の頭巾塚などがありますが、いずれもこの13塚に付随したものであろうといわれています。庚申塚があったというから村境のしるしでもあったのでしょうか。多くの13塚、山伏塚、頭巾塚といわれるもののほとんどが村境にあるということです。(水巻町誌)十三塚は猪熊小学校門の真向かいにある小山にあり、現在塚は見当たりません石碑が建っています。


 住宅団地     



 日炭閉山後社宅跡地の買収について、地域開発のため用地確保のため48年伊藤町長を理事長に水巻町土地開発公社が発足しました。まず日炭跡地開発の一つとして高松と三ツ塚開発計画に着手、両地域を「住宅改良事業法」に基づく地区指定区域にして、5ケ年計画で改良住宅730戸(町事業)県営住宅600戸を建て、道路・公園・集会所・店舗など近代的環境に改造しました。
炭住改良事業は昭和45年から55年度まで13年間続いた。第一礦地区(吉田、鯉口)、第二礦地区(梅ノ木、高松、三ケ頭)の炭住が対象でありました。
 49年4ケ年計画で改良住宅(高松)735戸のほかに、県営住宅(おかの台)600戸の誘致が計画され、梅ノ木炭住跡地に住宅公団の進出が内定しました。
「水巻町は町営住宅2,164戸、県営住宅816戸、雇用促進住宅80戸、住宅都市整備公団1,134戸、合計すると4,194戸の公営住宅を持つ日本一特異な町」(61年西部タイムス掲載)になりました。(増補水巻町誌)


報恩寺(ほうおんじ)    


浄土宗報恩寺は旧地名で城の腰にあります。本尊は木造阿弥陀仏で寺号は古城山地蔵院報恩寺といいます。穴生の弘善寺の末寺として、開基は念与上人です。石段のそばにある宝塔である五輪塔は瓜生 家の先祖を供養したもので享保の日付があり、水巻ではこのような供養塔は珍しいものです。


頃末(ころすえ)  

歴史上に頃末が出始めたのは、1432(永享4)年、是末という名で「対馬文書」の中で、その後1477(文明8)年、是末の名で黒崎下宮波多野文書にでています。すでにこの頃集落が営まれていたようで、荘園の名残をはっきりさせております。
明神ケ辻山麓南面一帯が広大な地域に亘って、弥生式後期の土器と貝塚の分散出土地帯であり、古賀村から分村する以前にすでに集落の形成があったと思われます。
是末から比末になり頃末に転化したと思われます。
立屋敷の保食神社の棟礼に「保食宮は昔、水巻宮と称す。水巻は、地名にして水の巻く意なり」と記されています。明治22年(1889)の町村制施行のとき、水巻山にあった戸長役場を村役場に改称して、役場の所在地の名をとって村名にしたのが水巻村です。その後昭和15年に町制を施行し、水巻町となりました。(水巻町史より)


 八剱(やつるぎ)神社 立屋敷

由緒書きによれば、第12代景行天皇の御世、日本武尊が筑紫野の熊襲征伐の途次、この地にて砧姫を娶られました。武尊が熊襲征伐の帰途、崩御されたのを聞き、尊の仮宮後に社祠を築き「 館明神」として祭るのを当神社の起源とします。後に八剣神社と改称しました。文治元年(1185)山鹿城主の山鹿秀遠が社殿を造営、その後も尚武の神として、大内・黒田と城主により五度、社殿は造営されました。当神社は、元は水巻の庄数か村の   もありましたが、遠賀川の改修工事(1628年)の分村によって、今では立屋敷区だけの神社になっています。境内には大銀杏の樹があり、県指定の天然記念物になっています。社宝として、壇の浦の源平合戦の戦勝記念として山鹿秀遠が奉納した県内最古の木造の狛犬と随身像があり共に町の文化財に指定され水巻町歴史資料館に展示されています。

河守神社 吉田三

祭神は大山祇命、岡象女神(農業用水の神)輿玉命(おきたまみこと:土地の神)です。後年堀川開削工事の恩人福岡藩六代藩主継高を祭りました。
堀川工事着手前年の1750年(寛延3年)工事の予箇所幸神社がありましたのを一時横の山に移し祭りました。堀工事の吉田車返しの切貫が開通後1760年(宝暦10年)藩公営で現在境内の奥石段の上に新しく石室の神殿が造営され、ここを川守大明神といって三柱の神(大山祇命・岡象女神・輿玉命)を移し祭りました。一方堀川は周辺の灌漑用水、川?(五平太船)を通して米・石炭等の輸送路として地域の発展に貢献しました。
川守神社の氏子は堀川用水を利用した旧16か村(中間市・旧中間村・岩瀬村・水巻町・旧二村・下二村・吉田村・頃末村・伊佐座村・立屋敷村・?村・古賀村・猪熊村・北九州八幡西区・旧折尾村・本城村・御開村・陣原村・則松村)で構成されていました。
現在の社殿は1914年(大正3年)に水下16か村により新築落成したものです。
神社行事は9月27・28日秋季大祭奉納相撲は遠賀3大相撲で現在は子供相撲になっています。
神社拝殿には豊作を感謝して奉納された36歌仙絵馬があります。1825(文政8)年に玉泉が描いたものです。36歌仙とは1009(寛弘6)年藤原公任が選んだ和歌の名手36人のことです。



羅漢地蔵 吉田二

吉田二地区に羅漢川というのがあります。貴船神社近くに岩を屋根代わりにし羅漢さんが並んで立っています。地元の人の話をきくと、かって堀川を掘り進める際、この羅漢川が堀川として進められていましたが、難工事であり洪水などもあり多くに作業員が亡くなるなど犠牲者が多数いたそうです。その霊を弔うためにこの羅漢さんが建てられたということです。結局堀川としての繋げることができず、羅漢川となりました。同じ所に中央四国31番札所があり文殊菩薩が立っており、金剛杖に頭陀袋、手甲脚絆に念珠をつまぐり、鈴の澄んだ音を響かせ、ご詠歌を流しながら巡礼した遠い昔より、現在に至るまで春秋には、札所詣りの人々がこの地を訪れ、地元の人はその日には茶菓子を出し接待を続けているということです。

吉田炭坑―片山炭坑 吉田一

 
明治30年の水巻炭坑の内、吉田炭坑は1日出炭量は40万斤で使用人数は200人平均賃金80銭でした。施設は売勘場、納屋10棟50戸、切符使用15日30日勘定、運炭経路運賃、堀川口より若松まで2円97銭、経営者は島津孫六、安永平太郎でした。
三好徳松は個人で明治36年頃末炭坑を手に入れて以来約30年間三好時代を築きあげました。三好鉱業鰍ヘ大正8年創設、13年には大正鉱業(伊藤伝エ門)の二・伊佐座・下二の鉱区を除き、全て三好の傘下となりました。高松本坑、高松二鉱・高尾鉱の三鉱山を主力としていましたが、高松の地名は吉田片山に片山炭坑を開いてからといわれています。この片山炭坑のそばに松の巨木が1本あり、これを高松と呼んでいたところから「高松炭坑」となりました。また一説にはこの松と三好徳松の「松」との縁起からそう呼んだという説もあります。吉田炭坑あとの硬山は、現在は緑に覆われその面影はありません。(水巻町誌より)

猪熊工業団地  猪熊
かって花形産業であった石炭鉱業は合理化に追い込まれ、閉山、離職者、生活保護と日本経済の暗部に転換しました。そこで生じる社会的、地域的摩擦を軽減するために、石炭六法が実施されました。産炭地域振興公団は、日炭若松礦業所の閉山に際しては、猪熊工業団地を造成しました。この工業団地に企業が進出してきて、39年兵庫県尼崎市に本社があるオリエンタルメタル製造水巻工場が進出しました。48年にはアイム電機工業(水中ポンプ製造)・三愛化工(金属製品防錆)・日本パーカライジング(鉄鋼表面処理化工)が進出しました。
平成17年現在この猪熊工業団地には高松産業など9社があります。アイム電機、工業日本パーカライジングも現在操業中です。
曲川  樋口      

明治維新前から遠賀川の川筋に多くの炭坑ができ、曲川が石炭輸送の運河として役立つようになりました。曲川を利用したのは頃末炭坑、朝日炭坑、梅木炭坑、樋口炭坑などがあり、古賀、樋口にツンバといわれる川?(カワヒラタ)積込場があって活気が溢れていました。積ン場には川?の船頭が寝泊りする船宿もあり飲食店、散髪屋などもでき、諸式屋は一寸した積場には必ず1、2件はありました。積み場から川?に移された石炭は、三ツ頭の唐戸をくぐり江川から若松に運ばれましたが、江川では浅瀬の汐の干潮の関係で、一夜は船の中で過ごさねばなりませんでした。若松までは往復で四、五日かかったそうです。曲川大橋は樋口と猪熊との間にかかっています。中間にも曲川大橋があります。

十字架の塔   新生街
 この十字架の塔は、先の大戦において日本の捕虜となり、この地で亡くなった外国人の方を祭ったものです。昭和18年(1948)捕虜となった外国人は、日本に連行され各地の炭鉱などで働かされました。水巻町の高松炭鉱にもアメリカ人70人イギリス人250人オランダ人800人が4回にわたって送られてきました。それは主としてインドネシアとシンガポールに篭っていた連合軍でした。
 高松炭鉱では古賀区にあった豆炭工場の脇に収容所を造り、坑内で採炭に従事させました。坑内での労働は厳しく、食事習慣の相違から病気で倒れる者、収容所での生活に耐えかねて脱走して処罰された者など、多くの方がこの地で亡くなりました。
終戦後、捕虜を監督していた日本炭鉱は、亡くなった方々の遺体処理に苦慮し、連合軍の戦犯調査委員到着前にこの十字の塔を造りました。
 戦後水巻町から炭鉱の面影も消え、この地で戦争による痛ましい歴史があったことも忘れてられていました。しかし1985年7月オランダ兵捕虜として高松炭鉱に収容されていたドルフウインクラー氏の来町によって、町の歴史の1ページを思い起こすことができました。この十字架の塔を、再び不幸な戦争を繰り返すことのないよう平和を求める私たちの願いとして後世に伝えていきます。
 水巻町にあった捕虜収容所で亡くなったオランダ兵53名の銅版のほか、日本各地で亡くなったオランダ兵818名を明記した銅版をあわせて設置しました。(由緒掲示板より)


炭坑就労者の像  頃末
図書館の駐車場にあるコンクリート製のこの像は、戦時中に軍需生産美術推進隊により作られ、日本炭鉱第二鉱坑口付近(現頃末中央)にありましたが、閉山後は旧日本炭鉱事務所の敷地内(頃末北3丁目)に移設されたもので平成16年8月町へ寄贈されました。
第一鉱(現吉田南)にも同様の像がありましたが、閉山直後昭和41年解体されました。
水巻町は明治・大正・昭和の石炭隆盛の歴史に重きを置き、昭和15年建立の「炭鉱就労者の像」を貴重な近代化遺産に位置付け、かっての日本炭鉱第二鉱を見下ろすこの場所に設置しました。(水巻町)
水巻村誕生  下二
 明治22年4月1日町村施行令による水巻村が誕生しました。古賀・猪熊・頃末・えぶり・立屋敷・下二・二・吉田・伊佐座村が合併し、役場を立屋敷丸の内に設けました。立屋敷にはそれ以前戸長役場があって、その頃から水巻の中央的な位置を占めていました。
村役場は小さな二階建て瓦葺きで、吏員は村長以下雑役まで含め6名で程でした。人口は3,000人でありました。
6月に岡有朋が水巻村初代の村長となりました。議員は13名が公選されましたが、議員の選挙権に1級・2級の区別があり、選挙資格は満25歳以上の男で1年以上その村に本籍を定めて居住し、1年以上直接税15円以上を納める者ということで、選挙されるものは満25歳から30歳までの男子で、婦人には選挙権も立候補の資格も与えられていませんでした。封建的で差別的であり、また資格のある有権者も少なく、1級議員は5票あれば当選できた時代でした。

真宗妙楽寺
  地図
山口から来た岡部磯衛門忠良という武士の開基です。天文5(1536)年鯉口に草庵を結びましたが、その後羅漢祠(御輪地)のそばに成就院という庵を建て、天正7年本願寺の末寺となりました。本尊は阿弥陀仏立像です。この場所から小六谷に移ったのは、寛永10(1633)年でありますが、昔の小六谷は石ばかりであり、堀川の揚土を捨てたので寺地としては適当な土地になることができました。
同時に「夢想によって得た」というので寺号を夢想山妙楽寺としました。またこの寺の前の堀川工事は長政の死で放棄されたままになっていましたが、いつか水が溜まり人々は大膳堀といっていました。堀川が車返しに変更になって、ここは寂しい場所となりましたが、則松から吉田への内往還も近くあり、この寺の裏からその往還に出る小径があって、それを狐道といっていましたが、則松の檀家はこの道を通って参拝していたということです。

内往還道跡 地図
往還道とは参勤交代の道として整備された街道のことですが、この吉田の道は黒田家の底井野お茶屋に通じる道とされています。内往還として吉田村には助卿(特定の村にかかる夫役)があって、殿様道として参勤交代の時も底井野お茶屋から、垣生村を経て長津村、吉田村と行列も華やかに通っていたことが遠賀郡史にも明らかにされています。
また吉田の人達は殿様道としての昔からのいい伝えを受け継いでいる所でもあります。
この道は今も利用者が日に何人かはありますが、則松境は峠の頂上になっていて、昔は茶屋があったと思われます。その頃の道路のしきたりは峠には道の補修と警戒をかね茶屋が置かれ狩人を兼業させていたのでした。(水巻町史より)


吉田改良住宅 (吉田二)  地図

日炭第一礦閉山直前の昭和41年には水巻町内には12ケ所の炭住区があり、4,422世帯2万336人が居住していました。39年の町の人口が3万4174人であるから、その60%を占めていました。
第一礦閉山とともに、大量の離職者を抱える炭住が問題となった。水巻町は元来都市スラム対策として登場した「住宅地区改良事業」を炭住改良に適用した。第一礦の炭住=吉田地区600戸を対象とし、全国初のケースとして注目されました。昭和43年吉田地区住宅改良事業がスタートしました。9か年計画で戸数1270戸を建築。事業費は国が三分ニ・残り三分一のうち起債が85%、地元負担15%でした。水巻町は37年に産炭地域に、45年に過疎地域に指定され、国および県の援助のもとに振興事業を展開しました。(増補水巻町誌)


古賀不動明王 (古賀) 地図

梅ノ木バス停を降りて、少し丘に登っていくと、石柱がみえます。古賀不動明王堂は日炭高松梅木労務の建物の左脇にあるお堂で、中央四国五十四番の札所になっています。
 この不動尊の縁起は、「大正5年再建の際の寄進名簿の緒言」には次のようにいわれています。
「今を去ること七百有余年の昔後鳥羽院の御宇文治3年(1187)に、久我城の城主である麻生修理の亮鎮里が勧請したまうところでありまして、世に伝う麻生氏の妃の重病に悩み続けられ、命脈旦夕に迫りきたりたる時に、関東下総の国垣生郡成田の荘に在す神護新勝寺の不動明王に祈誓を懸けられました。すると忽ち妃の病が平癒したので、その祈願が不動明王のお蔭で成就したと考えられ、この地に堂宇を建築し神護新勝寺の霊像を勧請されたものであります。 云々」
 その後たびたび悪疫等が発生した際には、この不動明王の霊験があらわしたことがあったそうです。(水巻町史より)


久我神社(古賀)  地図

 豊前坊山の坂道を登っていくと久我宮の石鳥居が見え、境内には久賀神社があります。久我神社由来は掲示板に詳しく記載されています。
 神功皇后が征韓の途次、筑紫岡湊に御滞在のおり、当古賀村に三神鎮座を閉召され、今の字 惣仙洞において釣り上げられた鱸(スズキ)を蓼(タデ)の穂と共に神前に供えられ征討の勝利を祈られました。この遺風が「穂蓼の神事」であります。これは神前において、蓼の葉を刻み、それを顔面に塗り皮膚への滲み具合によってその年の豊凶を占う神事でありますが、現在は途絶えています。この神事は中世の御世、古賀、?、頃末の三村の産土神として広く崇められ、又筑前山鹿城主麻生氏の出城が、久我嶽の山頂にあり、その崇敬殊に厚く、郡中、七大社の一つでありました。当時本社は区の南に分祀されることとなり、頃末には元亀2年(1571年)に、?には天正16年(1588年)社殿が設けられた。同時に本社も字亀の甲に御遷座申し上げました。また宝暦9年(1759年)それまで伊豆神社と称していたものを、久我大明神と改めました。明治43年本社を今の地に遷座し、合わせて豊前坊にあった高住神社(旧豊日別神社)及相殿疫病斎字厚鎮座の多賀神社洞鎮座の貴船神社及び各神社の境内社を合併合祀しました。この大神は古来安産の神として崇められ古賀には難産の煩いがないといわれます。

伊豆神社(頃末) 地図
元亀2年(1571年)頃末地区の開拓に伴い古賀神社鎮座の伊豆大名神(今の久我神社)より御分霊を受け、山頂に神殿を建立されました。よってこの山を明神が岳といいます。
 大正3年(1914年)この地に遷座、現在に至っています。彦火々出見命は高千穂降臨の神 邇々芸命(ににぎのみこと)の御子であり初代神武天皇の祖父にあたります。この大神は山を好み給い高千穂の宮当地に御臨降されたと言い伝えられています。合祀神社貴船神社は雨の神様として広く各地に祭られており、幸神社は「咳」の神社として、又唐熊神社は安政4年(1857)悪病流行しその消除のため建立されましたが、大正3年3社同時に伊豆神社へ合祀されました。
祭神は彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)・玉依姫命(たまよりひめみこと)塩土老翁(しおつちのおじ)です。(伊豆神社由緒より)

謡曲「砧
 (立屋敷) 地図
長専寺の境内掲示板に「謡曲史保存会」の説明文があります。
 謡曲「砧」は、夫と遠く離れた妻の恋慕の執心を生前、死後両面から描いた曲であります。ここ立屋敷は、古くは館屋敷とも書きました。前の遠賀川は寛永5年(1628年)以前はずっと西を流れていました。当時の立屋敷は対岸の広渡と同一村でありました。謡曲「砧」の主人公は川下の港町芦屋の某の妻、芦屋の某の住んでいたのがこの里ともいわれ、「砧の里」の伝承を残しています。鏡観音は昔は「砧姫明神」ともいい慶長6年(1601年)に村内にあった砧姫の墓と伝える古墳より出た直径8寸の鏡を祭っていました。後に観音の木像を祭り、鏡は八剣神社に移しました。その鏡も貞享元年(1684年)正月に盗難にあい失われてしまいました。
 隣接の矢剣神社も日本武尊と砧姫の伝承があり、砧姫社を相殿に祭るという、寛永の工事で社地が河川敷となったため合祀したといいます。鏡観音との関係は詳らかではありません。


炭坑坑口跡  (吉田三)  地図
水巻町の各地区に多くの名所旧跡があります。色々なところを訪ねて行くうち、かつて水巻を100年間に亘って代表してきた炭坑の記念となるようなモニュメントが、極めて少ないことに気づきました。40年前の水巻と現在の水巻では全く町の様子が変わっています。炭坑の全てを払拭するかのように、新生北九州のベッドタウンとして生まれ変わっています。この変化は時代に即した適切な対応だったと思いますが、かつて町を支えた炭坑の思い出が少ないということは寂しいことです。他の町村では炭坑記念館があったり、色々な形で物が残されています。
 この吉田三地区にある堀川車返しの住宅の後ろにひっそりと存在する炭坑の坑口跡も、近い将来取り壊されていく予定になっています。どこかへ移設しかって反映し炭坑時代の記念物としてなんとか残せる手立てはないものかと心配しています。(下村
         

貴舩神社  (吉田二) 地図

「1194(建久5)年源頼朝の家人宇都宮上野介麻生重業が平家討伐の功により遠賀郡、鞍手郡3000町歩を賜り、栃木県より下向し花尾城を築くとき京都府の鞍馬山より貴船大明神五柱を農耕水利災難厄除守護神として勧請しました。
「雨を止める時は白馬を、雨を祈る時は黒馬を献じ、風災害を防ぎ、五穀豊穣を祈る」と古記録にあり、その祭祀を藤原重満六輔 波多野兼直に定むとあります。
則松の高見神社へ1581(天正9)年事解之雄神一柱を分祀した。吉田車返し河守神社へ1760(宝暦10)年大山祇神岡象女神を一柱分祀した。」(貴船神社由緒による)
社殿は明治41年篭っていた乞食の失火あるいは機関車の煙突の飛火で焼けたとも言われていますが、高松炭鉱三好徳松など境内玉垣の寄付をし昭和3年に再建されました。「昔は雨を祈り、晴れを祷るには専らこの神社による」と社格帳に記載されていまして、大釜に湯を煮立たせ、煮立った湯を笹の葉で参拝の人に振り掛けたり、蒔を山のように積んで火を焚きその上を素足で渡って煥を蹴散らす「湯立」「煥蹴」の行事が行われていたのではないかと思われます。(水巻町誌による)



吉田ぼた山
  地図

水巻で石炭が発見されたのは、1751(宝暦)年頃で堀川運河工事中で、吉田村の切抜工事中異様なる黒色の石塊を発見しまして、それが燃料に適する事を知り村民は随意に採掘して、自家の燃料に用い始めました。吉田一地区に第一鉱跡地と一鉱ボタ山があり、現在は頂上部分が削られ全体を草木に覆われており、往時のボタ山の面影はありません。
最近再開発で道路が作られており、中間側に大規模な病院施設の建設の話もあがっています。

ボタ山とは「鉱山で採掘された鉱石のうち、資源として使えず廃棄する岩石などの部分を捨石、俗称でボタ(ズリ)という。このボタは特定の場所に集められて捨てられるが、長年にわたり捨て続けているうちにボタは積み上げられてゆき、やがて山ができてくる。こうしてできた山をボタ山という。」(百科事典より)



道元禅師と芭蕉塚 (猪熊)  地図
猪熊は井熊、猪隅と書かれた時代もありました。熊は隅で奥まったところ、入りくんだところで、島門側からいった意味にとれます。浄土宗の信者が多く、京都の本願寺の地名猪熊を名乗ったという説もあります。(水巻町史)
 鷹見神社を出て左に回ると、1227年曹洞宗の道元禅師が宋より帰国したおり、この猪熊を訪れ、道元禅師の句「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり」と記された石碑があります。
 同じ場所に俳宗芭蕉塚もあります。


 喚山(おらびやま)ものがたり (樋口)  地図

おらび山は樋口町のおかの台にある標高70mの山です。
 名前の由来は平家の落武者との関係で信じられています。壇の浦の戦いで敗れた平家の家臣が敗残の姿もいたましく、江川の方からやっとこの山に辿り着きました。山の頂上からはるかに古賀岳(豊前坊山)の山鹿透遠の端城をのぞみ、平家軍の安否を大声で呼ばわったのですが、その時既にこの端城も支えを失って落城した後でした。
 声を限りに大声をあげて叫んでみたものの、落城と聞いた落武者の悲嘆は、遂に自決を覚悟しなければならなかったのです。やがて静かに山を降りて十三塚(猪熊)で自害したのでした。同勢十三人であったといいます。いまわの声が里人の耳に焼きついて残ったのでしょうか、その声のおらばれ山として「喚山」と言うと伝えられています。(水巻町史より)



   古賀城址  (新生街)  地図
 久我神社の奥に回ると急な丸太造りの階段が見えます。五分ほどその山道を登り、見上げると石垣と小さな建築物が見えます。ミニチュア山城かなと思わせるその山頂には、古賀城址と刻まれた大石があります。古賀城は芦屋にあった山鹿城の出城であり、南北朝初期に立てられ、標高84mの山の頂上にあります。山鹿城は海賊城の型式で別名亀の尾城とも言われ平安末期に築城されました。
 筑前北部は1571(元亀元)年より1577(天正5)年の8年間は豊前・筑前を大友宗麟が制覇するところで両国はこの間平和な時が訪れていました。
 ところが1578(天正6)年4月宗像軍が遠賀平野へ侵攻を開始しました。氏貞は中間市底井野にある猫城(永富四郎左衛門)を岡垣にある岡ノ城(瓜生貞延)の守りとしたいため、猫城を攻撃しました。
 芦屋の山鹿城(麻生元重)と水巻にある古賀城(麻生鎮実)は猫城を救援したかったのですが、宗像軍に落城させられていまいました。



与四郎の伝説  (頃末)  地図

 与四郎は伊予の国に生まれて、子供の頃両親と共に故郷を去り、頃末村で育ちました。両親は若くして世を去り、残された与四郎は、村人たちに助けられて成長し、一人の作男として働くようになりました。
 元和元年(1615)の大飢饉にあたり、頃末村では、藩に納める年貢米を減免してもらうため、稲の出来高を調べる検見を願い出ました。いよいよ明日検見が行われるという夜、村人は集まりいろいろ相談しました。
 皆、心の内では干してある稲束を少しでも裏山に隠せば、出来高を少なく見せられると思っていました。末席にいた与四郎は、長い間世話になった村の為、自分がこの役をやろう心に決めたのでした。夜が更けてから、与四郎はこっそりと稲束に近づき何度も稲束を裏山へかくしました。 
 しかしこれで最後という時、役人に見つかり、その場で切り殺されてしまいました。与四郎が土地の者でなく、作男であったことから、与四郎の村を思う真心に、奉行も大いに感動し、格別のとがめもなく、年貢米の返上が認められました。
 村人は与四郎の行為を後世に伝え、その霊を弔うため、四季折々の供養を重ねています。
 義民与四郎の墓は徳照寺の丘中腹にあります。
(水巻町史より)




蔵冨吉右衛門ものがたり(下二)  地図

蝗(いなご)虫が発生する時期になると、農家では夜松明を燃して、鉦や太鼓で虫送りをするくらいしか方法はありませんでした。
水巻立屋敷在住の蔵冨吉右衛門が1669(寛文10)年77歳のとき稲の害虫駆除薬を鯨の油から発見しました。当時は田の中へ油を撒いて汚いとか、中々受け入れられず不評でした。
享保17年6月蝗害の兆しがみえて、郡代白水与右エ門が郡内一般に蝗害駆除の方法を求め、当時の保食宮の神官が吉右衛門の鯨油法を伝え、郡内一円で効果を得ました。
その後実験結果が認められ国中で使用するようになったのです。
蝗虫の時期になると、鯨油を田に注いで、後から竹竿で稲の上を撫でて、虫を油の上の浮いた上に払い落としいく方法は、石油に代わる迄は見慣れた農村の風景でありました。
その死後度々藩主の恩賞を受けましたが、鯨油が石油に代わり、今日の化学農業が普及するにつれ、吉右衛門の功績は全く顧みられていません。
蔵富吉右エ門は長専寺の裏に葬られていまして墓標に享保5年と記されています。



吉田切抜(きりぬき)(吉田三)  地図


堀川二期工事の中で難工事であったのが吉田車返から折尾宿口までの岩盤開削工事でした。この工事は「吉田切抜」「とひ切」と称され、石工のノミと鎚によって岩盤を開削していました。400メートル三間幅でくり貫くのに7年間かかりました。
遠賀川の洪水状況を視察した黒田長政は治水につき検討し、@川筋の中間より岩瀬・折尾を経て洞海湾へ流入する川を掘ればと考えました。Aまた当時遠賀川右岸一帯には水脈がなく、水田耕作に対して灌漑が十分でなかった。B遠賀川を水路として、筑前・豊前の年貢米を運んでいた川?(かわひらた)が、若松・黒崎方面に行くのに距離的・時間的に短縮できる。元和7(1621年)工事着工し郡民を駆り出して開始されました。元和9年長政死後工事中止となりました。
128年間空白の後、6代藩主黒田継高が再開し禄を受けた石工90人に増し夫役もふやし堀川二期工事を完工しました。そのノミ跡がいまでも堀川の吉田にあります。現在のような削岩機はなくノミを片手に鎚を打ち込む、ノミや鎚の破損がひどく、近くに鍛冶場が何軒かあったそうです。
吉田川伏越 (ふせこし)(吉田二  地図

手前が吉田川で、向こうが堀川で貴船橋の下で交差しています。
「当初吉田川は曲川の水を田畑に流すよう水路として使われていました。吉田川という名前は昭和43年の河川改修の時につけられました。江戸時代の堀川運河第二期工事のとき(1751から1762年)のときに、吉田川は堀川と交わることになりました。堀川を用水路にし吉田川を排水路にするため、吉田川の川底を掘り下げ、その上を堀川が通るよう立体交差させることになりました。つまり、その土木工事のとき交差する部分を石囲いのトンネルにしたのです。これを伏越(ふせこし)といいます。同様のものは中間市岩瀬の曲川と堀川の交差点にもありましたが、今はなくなっています。石材としては天井に御影石が、底・側板に砂岩が使われています。この砂岩は車返しの切貫工事のときに切り出されたものです。断面は幅190cm×高さ90cmあり、これが長さ25メートルにわたってトンネル状に並べられています。さらに個々の石材の角には切れ込みがあり、それぞれが組み合わされています。このような技術は当時としてかなり高度なものです。」
県道中間水巻線の新貴船橋に伏越のイラスト解説図が掲示されています。

JR東水巻駅 (吉田一)  地図

駅舎は自然の鼓動と森の安らぎを感じていただくためログハウスで、建設されました。
ログ原木は、日本三大美林のひとつとして名高い日田杉を使用しています。
若松・直方の区間の線を複々線に縮小してできた余地を利用して昭和63年3月開業した新しい駅でログハウス風の駅舎はV字型に広がるホームになっています。駅周辺には団地がありますがこれは炭住が改良されたものです。
JR駅は水巻に2箇所あり郡内では唯一です。JR東水巻駅は福北ゆたか線で昇降客1日
1400人位です。
現在は葛繽B交通企画が駅の管理運営をしています。
 
 
 
Copyright© 2005 Mizumaki Town Society of Commerce and Industry. All rights reserved